私は団塊の世代

団塊の世代の私が生きてきた時代を振り返ってみようと思います。私の記憶の間違いをご指摘くださるとうれしいです。

2024年1月のブログ記事

  • 助数詞

     算数の授業は、『1』から始まった。次の時間は『2』で、教科書に箸や靴などの絵が書かれていたように記憶する。次の時間は『3』と、毎時間1つの数について勉強するのは楽しかった。『10』まで進んだとき、次回は『11』だと期待したら、『10』で突然終わってしまい、以後は2桁の数がいきなりいろいろ出てきて... 続きをみる

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  • 国語辞典

     「『あ』で始まる言葉を20個ノートに書いてきなさい」というような宿題が出たときは、いつも鈴木さんの家に数人で集まる。皆で『あ』の付く言葉を言い合ってノートに書く。自宅で独りで20個も考え出すのはたいへんだが、鈴木さんの家なら、誰も思い付かなくなった時点で鈴木さんの兄が本を見ながら助け船を出してく... 続きをみる

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  • 赤ちゃん

     初めて詩を書かされたとき、先生が私の詩を教室で読み上げ、褒めてくれてうれしかった。普段褒められるようなことをしない引っ込み思案の私だから。『あかちゃんのつめ』という題の詩で、隣の家の赤ちゃんが母親に爪を切ってもらっている様子を書いた。我が家の飼い犬のクロを肥溜めから救い出してくれた隣家は、私が小... 続きをみる

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  • 左利き

     国語の授業は最初の数時間、自分の名前を平仮名でひたすらノートに書かされた。『なかざわきりこ』を繰り返して書く作業にうんざりして、隣の西本君を見ると、『にしもとよしかず』とまじめに書き続けているので、私も名前書きを再開するしかない。  左利きの堀内君を叱る小野先生の声がしばしば聞こえた。堀内君が鉛... 続きをみる

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  • 二宮金次郎像

     私は1953年(昭和28年)4月にK小学校に入学した。当時の校舎は木造が当たり前だった。K小学校の外壁は横板を鉛直に並べた下見張りになっている。校舎の東に二宮金次郎の銅像がある。薪を背負って本を読みながら歩いている金次郎少男(少年)の像は、当時多くの小学校に設置されていた。  私は1年1組で、担... 続きをみる

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  • フロイト

     おちんちんを前にぶら下げていて邪魔にならないのかと、私は子供の頃から疑問だった。《鉄棒をするときとか自転車に乗るとき、おちんちんが鉄棒やサドルに当たらへんのやろか? わたしにはあんな鬱陶しいもんのうてよかった》と思っていたから、フロイトのペニス羨望論は間違っている。男性にとってペニスは幼いときか... 続きをみる

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  • 社会の窓

     私が男の子を羨ましいと感じた点を強いて挙げるなら、戸外で排尿するときにパンツを下ろさずにすみ、ズボンの社会の窓からおちんちんを出すだけでよいこと。衆目にさらされながらパンツを下げて尻を出すのは少し恥ずかしい。大人になってからも、入院中にベッドの上で用を足さねばならないとき、看護師に便器を尻の下に... 続きをみる

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  • 食器洗い

     私の母は私とマイコに上から命令するタイプではなく、私達に家事を手伝うよう命じることはない。母が独りで忙しく働いて、私とマイコは好き放題に過ごしているのを見兼ねた父が、中学生の頃に夕食後の食器洗いを私とマイコの担当にした。もし兄か弟がいたら、父は彼男にも食器洗いを担当させただろうか? 食器洗いはほ... 続きをみる

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  • 男女同権

     小学校で、『男女同権』という言葉が流行した。男子が身勝手なことを言うと、女子が「男女同権やで」と言い返す。戦後の新憲法に因って初めて保障された女性の権利なので、それまで制約の多い生活を送ってきた日本の女性は『男女同権』をよく口にし、それを子供達もまねていたのだろう。小学生の私自身は性差別に鈍感で... 続きをみる

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  • 冬のソナタ

     2002年(平成14年)に日韓の両国で開催されたFIFAワールドカップと、翌03年に放送された韓国のテレビドラマ、『冬のソナタ』に因って、日本人は突如韓国に好感を持つようになった。朝鮮を蔑視してきた歴史をよく知らない戦後世代は、何のわだかまりもなく韓国のアイドル達のファンになってしまった。ハング... 続きをみる

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  • 偏見

     広島市で育った夫も近所に住む朝鮮人を見下していたようで、5歳上の兄から、「あいつをなぐってこい」と命じられて、夫は仕方なくその子をなぐって泣かせたと言う。この兄については肥溜めに落ちた話で前に触れたが、当時近所のガキ大将だった。私が会った20代のときには偏見を持たない好青年に成長していた。  夫... 続きをみる

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  • ニコヨン

     下校途中に工夫達が道路を掘り返しているのをよく見る。父が、彼らは日雇い労働者で、『ニコヨン』と呼ばれているのだと教えてくれた。日当が240円だから『二個四』なのだそうだ。ときどき、日本語ではない言葉をしゃべっているニコヨン労働者のグループにも出会う。子供達が、「朝鮮人や」と言う。それまで『朝鮮』... 続きをみる

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  • 子取り

     誘拐事件も昔は現在より多かったのだろうか? 当時は戦争で家族を失い、『浮浪児』(ストリートチルドレン)となった子供もいて、身代金目的以外の誘拐をメディアは深刻視していなかっただろう。私達は周りの大人から子取りの話をよく聞かされた。「子取りにさらわれたら、酢をぎょうさん飲まされて体を軟らこうして、... 続きをみる

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  • 踏み切り警手

     学区外通学の私は毎日阪急線の踏み切りを渡る。踏み切りも当時は手動で、横に踏み切り警手の小屋があった。尿意を催して急いでいる私にお構いなく、踏み切り警手のおじさんは遮断機を下ろす。「オシッコ! オシッコ!」と叫んでも、「そこでしなさい」と言うだけで、まだしばらく電車が来ないのに絶対に遮断機を上げて... 続きをみる

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  • 交番所

     学校まで1㎞の道のりの真ん中辺に比較的大きな十字路があり、その角に交番がある。私達は『交番所』と言っていた。交番所勤務の警察官を『巡査さん』と呼んだ。今は『おまわりさん』と呼ぶようだけど。交番所の巡査さんはよく交代するが、いずれも若い男性で、私達子供が通ると声をかけてくれるから、皆懐いていた。大... 続きをみる

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  • 終戦っ子

     K小学校の1年生は5学級である。1学級50余人なので、新入生は300人近いことになる。3年生も5学級だが、2年生は4学級しかない。1945年度(昭和20年度)生まれは、『終戦っ子』と呼ばれ、『産めよ増やせよ』の戦中世代と団塊の世代の谷間に位置する少人数の学年なのだ。徴兵で国内に残っている男性が少... 続きをみる

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  • 鉛筆削り器

     父が手回しの鉛筆削り器を買ってくれて、私の机に取り付けた。鉛筆削り器を持たない多くの同級生は、学年と共に肥後守で上手に削れるようになっていったが、現在に至るまで削り器に頼っている私は、70代の今も小刀では見栄えよく削れない。私より数年下の世代から削り器が普及し始めた。「今の子は手先が不器用で、鉛... 続きをみる

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  • セルロイド

     入学間近に勉強机を買ってもらった。自分専用の引き出しが沢山できてうれしい。勉強や読書は相変わらず茶の間の掘りごたつでするが。母の末妹の洋子叔母が、セルロイド製の筆箱を入学祝いにくれた。蓋に描かれた着物姿の若い女性の絵を、母が竹久夢二風だと評する。目尻の下がった大きな目が左右に離れていて、病身に見... 続きをみる

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  • 寄留

     K幼稚園から100m離れた所に、K小学校がある。K幼稚園の卒業生はK小学校に入学するのが当たり前という雰囲気だったから、私も当然K小学校だと思っていたのだが、手続きが面倒だったらしい。阪急線より南200mにある我が家はM小学校の学区なのだ。親戚のミネが阪急線より北のK小学校区に住んでいるので、彼... 続きをみる

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  • ひいき

     先生達からひいきされているなと感じる子がクラスにいた。彼女はしょっちゅう褒められて、「きょう子ちゃんのようにしましょう」と、私達の行動の手本にされる。ある日、きょう子ちゃんが描いた絵に先生達が感心して、彼女に四つ切りの画用紙を渡し、「これに描き直してちょうだい」と頼んでいるのを、私は横で見ていた... 続きをみる

  • 園長先生

     悪いことも良いこともせず、目立たない私は、担任の視野の外にいたような気がする。私の方も彼女の印象が薄くて、高校までの担任で唯一名前を覚えていない先生だ。半年ほどの短い期間だったせいもあるかも。大阪の大宝幼稚園の中西先生は母と仲がよかったこともあって、発達の遅れている私に気配りしてくれたように思う... 続きをみる

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  • 幼稚園

     K幼稚園もやはり楽しい所ではなかった。よし子ちゃんと一緒だったら、もう少し居心地がよかったかも。卒園まで同級生の女の子の誰とも親しくなれなかった。でも自分で行くと言い出したのだから我慢して通った。あのブランコの『しっかりした子』に、通園を始めてまもなくから意地悪されるようになった。帰りの時間に歌... 続きをみる

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  • ブランコ

     よし子ちゃんが幼稚園に通っていることを知って、私も少し行く気が起きてきた。母は喜び勇んですぐに、よし子ちゃんと同じT市立K幼稚園の入園手続きをした。もう2学期の半ばくらいになっていただろう。母に連れられてK幼稚園の門を初めてくぐったとき、園庭のブランコで数人の女児が遊んでいた。母が声をかけると、... 続きをみる

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  • 女性語

     絵画教室で同い年のよし子ちゃんと友達になった。彼女とはお互いの家を行き来するほど親しくなれた。ほかの子は教室内だけの付き合いで終わったが、よし子ちゃんは私に積極的に話しかけてくれ、会話をリードしてくれたので、人見知りの強い私も仲良くなれた。彼女の家は広く、我が家近辺の庶民階級の住まいとは異なる雰... 続きをみる

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  • 長谷川一夫

     近所に住む親戚のミネは、長谷川一夫(俳優)の付き人のような仕事をしていた。彼女は長谷川一夫に心酔し、我が家に来ても彼男の話ばかりする。私達の前でも彼男を『先生』と言う。私の両親は彼男をもちろん呼び捨てだが。自宅でも夫を相手にやはり彼男の話に夢中だったのだろうか? 子供がいないことも一因かもしれな... 続きをみる

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  • 旧制商業学校

     4人兄弟の中で宮仕えは父だけで、二郎伯父と四郎叔父も実業家だ。四郎も父に劣らず小学校の成績が良かったが、「2人も大学に行かせる必要はない」という一郎の考えで、四郎は商業学校に進学した。いつだったか成績表を見せてもらったら、どの科目も学年で1番と書いてあった。授業内容が易し過ぎて物足りなかっただろ... 続きをみる

  • 松永安左エ門

     能力の評価尺度は学校と社会で異なる。父の兄の一郎伯父は貧困のために小学校しか出ていなくて、しかも小学校の勉強も、「さっぱり分からなんだ」と言うが、世渡りは上手だった。起業し、京都市内では名の通った会社に成長させた。  某月刊誌に彼男のエピソードが実名で載っているのを、4人兄弟の上3人の死後に末弟... 続きをみる

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  • 神童

     我が家から数百mのところに住む親戚のミネは、来訪のたびに、私の新しい絵を見るや、「キリコちゃんの絵はピカソや」と叫ぶ。『ピカソ』とは訳の分からない絵という意味である。私は静物を忠実に写生しているつもりなのに。彼女は父の姉の息女なので私の従姉になるが、父と同年で、2人は小学校の同期生である。父を『... 続きをみる

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  • クレパス

     母は兵庫県T市に転居後すぐに私を幼稚園に入れるつもりだったらしいが、私は拒否した。近所の子供達が誰も幼稚園に行っていないのを見て、通園は義務でないことに気付いた。姉のいち子を見習って教育ママになろうと張り切っていた母はさぞかし残念だったろう。「ほなら、せめて習い事でも」と、近所の絵画教室に入れる... 続きをみる

  • 撹拌式洗濯機

     1952年に買った我が家の最初の洗濯機は、翌年三洋電機が発売した噴流式(渦巻き式)と違い、『撹拌式』といって、真ん中に撹拌棒が立っている。撹拌式の発祥はアメリカであることを、20年以上たってから知った。1970年代にアメリカに1年住んで、コインランドリーを利用したら撹拌式だった。撹拌式は撹拌棒が... 続きをみる

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  • 8ミリ映写機

     父が母に、「洗濯機かオルガンか、どっちがええ?」と尋ねたそうだ。母は電気洗濯機を見たことがなかったので、その威力が理解できていなかった。姉のいち子伯母に感化されて教育ママになりたい母は、気持ちがオルガンの方に傾き、芦屋の高級住宅地に住む叔母(私の大叔母)に相談した。  『芦屋の叔母ちゃん』は私の... 続きをみる

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  • 電化元年

     1953年(昭和28年)を『電化元年』と呼ぶが、我が家の電化元年は前年の52年である。電気洗濯機を買ったのだ!  父は一介のサラリーマンだが、ときどき収入に見合わない大きな買い物をする。普段は倹約一方で、母は父をけちだとぼやく。買う必要のない物をだらしなく買ってしまう母より、私は父の方に共感を覚... 続きをみる

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