私は団塊の世代

団塊の世代の私が生きてきた時代を振り返ってみようと思います。私の記憶の間違いをご指摘くださるとうれしいです。

第五福竜丸事件

 私が1年生の3学期、1954年(昭和29年)3月1日 に第五福竜丸事件が起きた。アメリカが、太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁で水爆実験を行ったのだ。漁船の第五福竜丸はその灰を浴びた。水爆実験は5月まで続き、5月17日には日本全土が被曝した。以来雨が降るたびに、「頭がはげる」と学校で大騒ぎになる。2年生の遠足のときも、途中で雨が降ってきて、「放射能や!」「はげる!」と口々に叫びながら、上着やリュックサックなどで頭を覆う。被曝による健康被害は髪が抜けるだけじゃなく、もっと深刻なのに、当時の人々の認識はこのレベルだったらしい。ビキニがニキビと発音が似ているので、聞くたびに、≪ニキビは顔のできもの、ビキニは水爆≫と、私は頭の中を整理せねばならなかった。水着のビキニが日本語になったのはもっと後である。
 遠足はいつも電車を使う。転校後の東京の小学校は、1クラス1台の観光バスをチャーターした。私の子供達の遠足もいつもバスだった。クラスの児童を並ばせて順に電車に乗せるのは、担任にとって気苦労の多い仕事だと思う。私より2、3人後ろの女子から行方不明になったことがある。彼女は列が分からなくなって別の方へ行き、後ろに並んだ子供達はそのまま彼女についていってしまった。小野先生は大慌てで、「あんたらはここでじっとしてるのよ」と私達に言い残し、女子10余人を捜しに行った。ほどなく見つかり、私も安堵したが、列を見失って10余人を迷子にさせた子は、小野先生に大声で叱られていた。
 駅で子供達は「キタ、キタ、南」と叫ぶ。キタは、『来た』と『北』を意味する。電車が来たかのように言って周囲の関心を引き、その後「北と南を言うてるだけや」とがっかりさせる。東京の発音だと、『来た』と『北』のアクセントの位置が異なるので、ジョークにならないが。
 一般客と一緒の車両に乗る。1学年300人近くがどっと乗るのだから、一般客も迷惑だったろう。級友の皆が立っている中、目立つ服を着ている私だけ、中学生くらいの女の子達に「ここに座り」と座席を詰めてもらうことが多かった。クロスシートの向かいどうしにクラスメートと座らせてもらったこともあり、お姉さん達が「わたしらの子の方がかいらしい」とディベートを始めて、向かいの子と私はどう反応すればいいのか分からず、押し黙って居心地の悪さに耐えた。
 遠足の行き先については関心がなくて、集合写真を見ても思い出せない。4年の秋に箕面の滝に行ったこと、5年の春に京都のお寺巡りをしたことだけ覚えている。低学年のときにひらかたパークに複数回行ったような気がする。一度は菊人形の時季だった。息女も遠足の目的地について尋ねても何も答えられない。バスの中でガイドがクイズやゲームで遊んでくれたことを楽しげに話すのみ。息男は私達と真逆で、小学校の修学旅行から帰った直後に、「何が一番面白かった?」「日光東照宮が素晴らしかった。」 枕投げとか言う子が多いと思うのに。中学校の修学旅行のときは、金閣寺が修理中で見学できなかったことを至極残念がっていた。

第五福竜丸:Wikipediaより

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