私は団塊の世代

団塊の世代の私が生きてきた時代を振り返ってみようと思います。私の記憶の間違いをご指摘くださるとうれしいです。

2023年9月のブログ記事

  • 大丸心斎橋店

     『お醤油屋さん』のほかにも食料品店が近所にあったのか記憶にない。大丸とそごうのデパートまで歩いて5分なので、食料品をデパートで買っていたから。そごうは大丸の向こう隣で、母は私とマイコを連れて毎日近い方の大丸に通った。家庭に冷蔵庫が普及していない時代は、生鮮食品を毎日買いに行かなければならない。 ... 続きをみる

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  • スケーター

     数軒先に住んでいるたか子ちゃんともよく遊んだ。たか子ちゃんは私より何カ月か下で、私とマイコの間の学年になる。おとなしい彼女は、いつも私の要求に従順なので、私の思い通りに遊べて楽しい。マイコは小さ過ぎて私の意図を理解できないことが多いし、すぐに気が変わって遊びが長続きしないが、たか子ちゃんは根気よ... 続きをみる

  • はな垂れ小僧

     『征子』や『征夫』のような名前の知人が、終戦前に生まれた世代に何人かいる。戦勝を祈ってつけたのか? 戦後生まれの私達団塊の世代では、『征』の字の付く名前はまずないだろう。  征子ちゃんの父親は事業家で、我が家と対照的な豪邸に住んでいる。征子ちゃんは数人のきょうだいの下から2番目だ。末っ子のかっち... 続きをみる

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  • 進駐軍

     家の前を進駐軍のジープが頻繁に往来する。当時の日本は連合国軍に占領されていた。軍服姿のアメリカ人も歩き回っていて、私達子供を見ると愛想よく話しかけ、ガムをくれる。チョコレートをもらった子もいたらしいけれど、私はいつもガムだった。優しいお兄さんだと思う一方で、日本人の大人達の彼らを畏怖する感情が私... 続きをみる

  • 電熱器

     私の一家は、1950年(昭和25年)に京都の母の実家から大阪の社宅に転居し、私は3歳と4歳の2年間を掘っ建て小屋のような家で暮らした。父の会社の上役の土地で、空き地のままだと荒らされる危険があるので、社宅として貸し出すことにしたのだそうだ。2Kの平屋。京都の祖母父の家とは材質も広さも大違いだ。敷... 続きをみる

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  • 母の実家のその後

     私達が3年後に大阪の社宅へ転居した後も、いち子伯母は実家に住み続け、結局彼女が井村家の実質の跡取りとなった。名字は井村じゃないけれど。妹2人(私の叔母達)が結婚して出ていき、両親(私の祖母父)が亡くなって、いち子婦夫は84年から実家のヌシに。いち子は夫の死後も数年間、独居老人の生活を送り、200... 続きをみる

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  • IKONTAのカメラ

     小学校の運動会をカメラで撮る父親達に交じって、独り旧式の蛇腹カメラを構える父の姿が、私は少し恥ずかしかった。よその父親は皆、上からのぞく方式の二眼レフカメラだ。しかし、二眼レフがあっという間に廃れたのを見てからは、父の舶来品の上等カメラを卑下する気持ちがなくなった。  私が大学生になった1965... 続きをみる

  • どこの大仏?

     幼少期の写真は写真館で写した物しかない友人が多い中、私は父のカメラで撮った写真を沢山持っている。カメラが家庭に普及し始めたのは50年代になってからだが、なんと父は37年(昭和12年)に購入していた。学生時代に一郎伯父にねだって買ってもらったドイツ製のIKONTAというカメラである。「普段なんにも... 続きをみる

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  • 2歳の記憶力

     いち子伯母一家と私の一家は二階に住んだ。私達の住まいは道路に面した一番狭い部屋で、屋根裏部屋みたいに天井が斜めになっている。3人の布団を敷いたら畳はほとんど見えなかったように記憶する。食事は小さな長方形のちゃぶ台でとった。食事以外のときはちゃぶ台の脚を畳んで壁に立てかけておく。大阪に転居する前の... 続きをみる

  • 母の実家

     私は生後3年間を、母の実家で暮らした。祖母父と、未婚の2人の叔母と、いち子伯母一家3人と、それに私の家族4人が同居して、祖母父は、2人の息女[むすめ]が嫁いで家族が減るどころか、逆に夫子[ふし](夫と子)を連れて次々と戻ってきたのは、うれしかったか、それとも鬱陶しかったか? 大人8人、子供3人の... 続きをみる

  • ペニシリン

     「隆ちゃんは早うから首がすわってるのに、キリコは遅かった。髪も薄うて、隆ちゃんとえらい違いやった」と母から何度も聞かされた。でも物心がついたときは既に、髪の毛が多くて持て余すほどだったし、顔も長いどころか真ん丸で、面長のマイコが羨ましい。但し後頭部の形は、マイコより私の方が良い。彼女は乳児期に寝... 続きをみる

  • 乳腺炎

     母の片方の乳房が乳腺炎になり、母乳不足で人工の粉ミルクを足さねばならなかったのも、私の成長を阻害したと思う。当時の人工栄養って、どんな代物だったのだろうか? 47年(昭和22年)の日本の経済は最悪だったと聞くから、まともな栄養がとれるはずはない。「あんたがしっかりお乳を吸わへんさかい、乳腺炎にな... 続きをみる

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  • 鉗子分娩

     終戦の翌年の46年(昭和21年)3月、23歳の母と31歳の父は平安神宮で挙式した。父の養父である一郎伯父の家の1部屋を借りて1年住み、私が生まれる少し前に母の実家に移った。まだ自宅出産が普通だった時代に、私は助産院で生まれた。ちなみに、いち子伯母は修平を兵庫県の自宅で産んでいる。私と同じ日(47... 続きをみる

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  • 戦争と父

     父も、いち子伯母の夫のようなひどい目には遭わずにすんだ。39年(昭和14年)に召集された父は、戦争が悲惨さを増す前の43年に除隊できた。再度徴集されないように、『日本軽金属』というアルミを精錬する会社に、中途採用で滑り込んだ。学徒出陣も実施される中、軍需品のアルミのおかげで、父はうまく逃げおおせ... 続きをみる

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  • 戦争と母

     京都は空襲が皆無に近かったから、その点では私の両親は一般的な日本人より恵まれていたと思う。京都は原爆投下の候補地なので、アメリカが終戦後に原爆の破壊力を調査しやすいよう、原爆以外の空襲を控えたのだと聞く。広島も同様で、原爆の投下まで空襲の被害をほとんど被っていない。終戦直前に京都と広島の運命が分... 続きをみる

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  • 母の姉一家

     兵庫県で新婚生活を送ったいち子伯母だが、終戦前に実家に戻っていた。息男[むすお]の修平が44年(昭和19年)に生まれた直後に夫が召集され、更に家が空襲で燃えてしまって、京都の実家に逃げ帰ったのだ。  夫は終戦後シベリアに送られ、無事に帰国できた戦友が、彼男の死を知らせに来た。いち子は来訪のお礼に... 続きをみる

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  • 両親の結婚

     両親は見合い結婚である。井村家と中澤家の後継ぎ同士が、入籍できないにもかかわらず、なぜ見合いをしたのか、これも私にとって七不思議のひとつである。一郎伯父の妻が母の親戚であるという縁で、結婚話が生まれたという。父が東大出だと知ったいち子伯母は、即母に結婚を勧めたのだと、後年私に話した。母も父も京都... 続きをみる

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  • 無国籍者

     第二次世界大戦が1945年(昭和20年)に終わると、徴兵されていた諸国の男性が戦場から一斉に帰国し、世界的なベビーブームが起きた。日本のベビーブームのピークは47年から49年の3年間で、その間に生まれた者を、『団塊の世代』と呼ぶ。47年3月21日に生まれた私は、『団塊の世代』の大行列の先頭の方を... 続きをみる

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