カルピス
我が家で夏に来客に出す飲み物はカルピスである。冷蔵庫のない我が家では、ほかの清涼飲料水は気温と同じ温度で飲まねばならないが、カルピスは水道水で数倍に希釈するので、水道水の冷たさになる。四郎叔父の家には木製の冷蔵庫があり、水道水より冷たい物が飲めて羨ましい。三ツ矢サイダーやバヤリースオレンジが冷蔵... 続きをみる
赤玉ポートワイン
私に子供ができてから母に、「おやつに、お菓子じゃなくて果物をいつも食べさせてくれたこと、感謝してる。あたしも見習って、この子にはお菓子を与えないようにしてるの」と言ったら、「あの頃はろくなお菓子があらへんかったからや。今はおいしいお菓子がぎょうさんあるのに、家で食べさせてへんと、よそでがつがつし... 続きをみる
ペコちゃん
おやつに果物やふかした薩摩芋を食べるので、菓子類はたまにしか買ってくれない。私も菓子より果物の方がうれしい。よその子供達がよく食べている駄菓子は絶対に買わない。毒々しい色が着いていて、食べた子の舌が赤や青に染まっているのを見ると、私もぞっとする。母が市場で、「キャラメル、買うたげよか」と言ったと... 続きをみる
マクワウリ
メロンの仲間のマクワウリもよく食べた。果皮は黄色で実は白。キュウリのように味が薄いけれど、我が家は好きだった。マクワウリ以外のメロンは当時マスクメロンしか存在しなかった。高嶺の花のマスクメロンは成人するまでに数回切れ端を食べる機会があった程度である。私が高校生の頃にやっとプリンスメロンが出現した... 続きをみる
いちごスプーン
我が家の野菜の消費量は少なめだが、果物は大量に摂取する。冬場は手の平が黄色くなるくらい温州ミカンを食べるし、現在なら売り物にならないと思えるほど酸っぱい夏ミカンも、おやつによく食べた。食後のデザートのときは、母が夏ミカンの小袋を外して皿に並べ、砂糖を掛けてくれる。近所の山本さんのおばちゃんから、... 続きをみる
輸入自由化
日曜日に父が、「バナナを食べよか」と言うと、私は大喜びした。果物は全般に好きだが、中でもバナナが大好きだった。喜び勇んで家族の人数分4本を買いに行く。1本45円。高いので月1回も食べられない。私はバナナをかじらずに、クリームをなめるようにいとおしみながら大事に大事に食べた。家族3人も今と違ってゆ... 続きをみる
番茶
我が家の日曜日の朝食は、菓子パンと紅茶が定番メニューだ。遅い起床後にパン屋へ買いに行く。あんパンが10円で、あんパンより一回り大きいジャムパンとクリームパンが15円だったのを覚えている。食欲旺盛な私はジャムパンかクリームパンを買うことが多かった。食の細いマイコはあんパンか甘食を選ぶ。 和食より... 続きをみる
ウスターソース
食卓に、ソース(ウスターソース)・醤油・味の素・食卓塩を置くのが当時の日本の風習だった。私は薄味が好きなので、これらの調味料を食事中に使うことはまずないが、父は漬物用の醤油皿に味の素を振ったり、カレーにソースを掛けたりする。家庭だけでなく、大衆食堂のテーブルにも醤油やソースが常置されていた。多く... 続きをみる
おひつ
母が炊く御飯は、よそより硬めである。祖母の御飯はもっと硬い。井村家は歯が丈夫なせいか? 祖母の家より我が家の御飯の方が少し軟らかいのは、歯の弱い父の嗜好に母が合わせていったからだろう。私の夫は御飯の硬さに無頓着なので、私は自分の好みで母と祖母の中間の硬さに炊いている。来客時だけ炊飯器の目盛り通り... 続きをみる
ジキルとハイド
肉屋のおばさんは上得意の母にいつもおべんちゃらを言う。例えば代金の計算時に、「いやあ、お母ちゃんの方がおばちゃんより計算速いわ。あんたのお母ちゃん、すごいなあ」と私に向かって言う。母は小学校低学年の私よりも計算が遅いのによくそんな見え透いたお世辞をとあきれた。そのおばさんが、私が独りで使いに行っ... 続きをみる
物価
母が市場で卵を落として割ってしまったことがある。卵を5、6個買って、雑誌か新聞紙で作った紙袋に入れてもらったのを、地面に落としてしまった。当時卵の値段は高くて、1個10円くらいした。その後の70年の間に物価が10倍近くも高騰しているのに、『物価の優等生』といわれる卵はずっと10円から変わらなかっ... 続きをみる
ステント
母の姉のいち子から後年、「あんたとこはしょっちゅうお肉を食べてたな」と恨みがましく言われて驚いたと、いち子の死後に母が語ったとき、私はもっと驚いた。それまでの母は、「姉ちゃんとこは、お肉より野菜が好きやねん」と私に言っていたのに、話が違い過ぎる。そういえばいち子の息男の修平も、私とマイコの持ち物... 続きをみる
エンゲル係数
毎日の食料品は駅前の市場で買う。大阪と違ってT市にはデパートなどない。代わりに大きな市場があり、母は籐編みの買い物籠を持って通う。外出が嫌いな私は、マイコと一緒に留守番していることが多いが、彼女がいないときは、泥棒が怖くて独りで家に残れず、母についていくか、少量の買い物なら私が使いを引き受けるか... 続きをみる
金だらい
父が外泊の夜は3人で母を真ん中に寝る。母は枕元に金だらいとすりこぎを用意する。『金[かな]だらい』は入浴時に使う湯おけである。当時はまだプラスチック製はなく、木製は既に廃れ、金属製が一般的だった。泥棒が侵入してきたら、すりこぎで金だらいをたたいて音を出し、泥棒を驚かせて退散させるのだと言う。そん... 続きをみる
チャルメラ
話を戻すと、父が不在の夜、母は羽を伸ばしながらも、父に頼れない不安な気持ちも見せていた。私にも伝染してうら寂しい気分になり、カエルの鳴き声がいつもより大きく聞こえたりした。夜鳴きそばのチャルメラも、父がいるときは耳に入らないのに、やたらとわびしい音色を奏でる。チャルメラの正体がラーメンの屋台であ... 続きをみる
うそ
父の帰宅が遅かったり、出張で不在だったりの日の母は、昼間から羽を伸ばしてくつろいだ気分でいるのが、幼児の私にも感じ取れた。夕食も手抜きして、私とマイコの好む物だけ作る。「御飯が腐ってしもたさかい、晩御飯はなしにしよ」と母が言ったことがある。《えー、おなか空いてるのに。》 でも腐っているなら食べら... 続きをみる
マツタケ狩り
父の会社の遠足に一度だけ参加したことがある。泊まり掛けの旅行もあって、母がついていくときは祖母を京都から呼び出し、私とマイコの世話を頼む。私が唯一参加した会社の遠足はマツタケ狩りだった。家族4人で山の中を歩き回ってマツタケを採った。楽しかったが、酔っ払って大声を上げている男性にときどき出くわし、... 続きをみる
通天閣
兵庫県時代の父との外出で強く記憶に残っているのは、宝塚の『ウエーブコースター』に乗ったこと。『ウエーブコースター』は1952年(昭和27年)にできた日本初のジェットコースターである。どんな遊具か興味を持った父が、私とマイコを出しに使って連れていったのだろう。父は前の座席に座っている私とマイコが吹... 続きをみる
破傷風
日曜日は父にとって1週間の睡眠不足を補う日だから、家族で外出することは滅多にない。来客も親戚以外にまずなかったが、囲碁好きの会社の部下だけは月に1回くらいの頻度で、父に囲碁の指導を受けに来る。彼男に慕われて父はよい気分らしく、鬱陶しがらずにいつも機嫌よく『愛弟子』の彼男の相手をしていた。 ほか... 続きをみる
みおつくしの鐘
父が寝床で新聞や雑誌を読むときは、電気スタンドがまぶしくないように、私の顔に新聞紙を1枚かけてくれる。父は私とマイコには姿勢正しく読書することを強要しながら、自分は寝転んで読む。私達の視力の低下を避けたく、父自身は読書に睡眠薬の役割を期待しているからだ。 ラジオもスタンドもつけないで、暗闇の中... 続きをみる
南都雄二
就寝時父は枕元のラジオで、NHKの『話の泉』、『私は誰でしょう』、『とんち教室』や、民放の『夫婦善哉』などを聴いていた。『夫婦善哉』は漫才コンビのミヤコ蝶々と南都雄二が司会する番組である。後にテレビでも放送されるようになった。ミヤコ蝶々と南都雄二は子供にも有名で、その辺の文字を指差して、「これは... 続きをみる
不眠症
父の不眠症は厄介だった。常に睡眠不足に悩まされている本人はもちろんつらいだろうが、家族も気を遣わねばならない。父が隣室で寝ているときは、抜き足差し足で歩き、ひそひそ声で会話する。乳幼児期の私は夜中によく泣いたので、母はそのたびおぶって京都の街を歩き回らねばならなかったと言う。私の夫は父と正反対で... 続きをみる
中折れ帽
父は髪をポマードで七三分けに整え、背広、裾を折り返したズボン、中折れ帽の姿で出勤する。帽子をかぶらなくなったのは、浴衣を着なくなったころだろうか。毎日判で押したように、午前8時に家を出て午後6時に帰宅する。こんなに早く帰宅するサラリーマンは当時でも希有だったのではないだろうか? 残業せず、会社帰... 続きをみる