講談社版 世界名作全集
修平は講談社の『世界名作全集』を私よりたくさん持っている。我が家にない『あらしが丘』とか『鉄仮面』とかを、暇潰しに読んだ。私と同じ世代の小学生のほとんどがこの世界名作全集を読んでいると思う。 私が最初に手にしたのは『子じか物語』だ。高卒後就職した洋子叔母がプレゼントしてくれた。彼女の就職と私の... 続きをみる
立体ジグソーパズル
祖母の家にはいち子伯母の息男の修平と高校生の洋子叔母がいて、トランプやダイヤモンドゲームなどをして遊んでくれる。マイコと2人姉妹の私は兄のような修平と遊べるのがうれしい。背の高い修平は小学生なのに大人の自転車を乗りこなし、私とマイコを交替で後ろに乗せて近所を走ってくれる。戦争ごっこをして、「キリ... 続きをみる
大文字焼き
琵琶湖から帰ると、私とマイコは今度は京都で10日間ほど過ごす。祖母父の家と四郎叔父の家に泊めてもらう。父は厚かましいと思わなかったのだろうか? 東京に転居してからも父は毎夏私達を京都に送った。祖母父は孫の私達より息女の母が来た方がうれしいだろうに。私も結婚後子供を両親に預けてよく旅行したが、用も... 続きをみる
鶏
小学校低学年のある日、別荘に10人近くの親戚が集まったので、鶏肉のすき焼きパーティーをすることになり、二十歳くらいの男性が生きた鶏を3羽持ってきた。1羽を左手でつかむや、右手で首をねじった。ちぎれた頭の方をバケツの中に落とすと、ボトンと音がした。左手に持った首なしの体がばたばた暴れ、手から放れて... 続きをみる
朝鮮碁
湖に入らない時間は、家族4人でゲームをした。ここでは両親とも暇なので、よく遊んでくれる。私もマイコも幼児期から麻雀を知っていた! パイに書かれた漢字が中国語風に読めるようになり、9までの数の中国語も自然に覚えた。麻雀で『2』は『リャン』(両)と言うが、後年テレビの中国語講座を見て、『二』は『アー... 続きをみる
琵琶湖3
別荘から1㎞離れた公共の水泳場にも、ボートで時々連れていってくれた。水面にスイカの皮が一面に浮いていてきたならしい。これでは魚も見えない。一郎伯父の私有地の湖と全然違う。一郎は浴室に髪の毛が1本落ちていても怒る人だから、スイカを湖に捨てるなんてもってのほか。多くの水泳客がスイカの皮に囲まれながら... 続きをみる
アイススケート
母はアイススケートも滑れる。十代の頃自分のスケート靴を持っていた。姉のいち子に連れられてアリーナによく行っていたと言う。当時の井村家は曽祖母(2人の祖母)が牛耳っており、古い考えの曽祖母に分からないように身軽な格好で家を出ると、祖母(2人の母)がスケート靴を二階から落としてくれるのだそうだ。 ... 続きをみる
武徳会
私の両親の世代はカナヅチが多いと思うのだが、2人とも泳げる。父は東大在学中、静岡県の戸田にある東大の宿舎をよく利用して、海で泳いでいたそうだ。我流の父と違って、母は子供の頃、姉のいち子と一緒に『武徳会』という水泳教室に通った。母の時代に水泳教室があったとは! 私の子供達もスイミングスクールに入れ... 続きをみる
琵琶湖2
アウトドアが苦手な私だが、なぜか水浴だけは好きだった。水が澄んでいるので、背の立たない深さでも湖底の石がよく見える。湖の中は砂でなく、石がごろごろしていて、歩くと足の裏が少し痛い。小魚の群れが時折通る。タオルを広げて魚をキャッチアンドリリースして遊んだ。琵琶湖に行かなくなって50年たつが、現在の... 続きをみる
琵琶湖
我が家は毎夏1週間ほど琵琶湖で過ごす。琵琶湖畔に一郎伯父の別荘があるのだ。長期に家を空けるのは空き巣が心配だから、祖母に留守番を頼む。小さな家に独りで留守番して何の面白いこともないのに、祖母は京都から毎年快く来てくれた。亭主関白の父に仕える母に、楽しい時間を与えたかったからか? 二世帯家族の世話... 続きをみる
両立
小野先生が普通のおばさんに見えて、ショックを受けたのは、3年生のとき。ゼロ歳の息女をおぶって、大きな荷物を持って、必死の形相で駅の構内を歩いている先生に出会った。彼女は妊娠のため、私達の担任を2年生までで降りていたので、私は3年生に進級後彼女を一度も見かけなかった。それが突然、髪を振り乱した彼女... 続きをみる
丁寧語
入学して数カ月たった頃、母が小野先生に、「キリコは小柄で小学生に見えへんさかい、電車の切符を買わんでも乗れんねん」と笑いながら言うのを横で聞いていて、私は慌てた。先生は正義の権化なのに、そんな不正行為を先生に暴露するなんて! しかし意外にも小野先生は母を批判することなく、ほほえみ返すだけだった。... 続きをみる
浪人
1・2年の小野学級で一緒だった真野さんは、珍しく4人姉弟の総領である。きょうだいの多い人は大概末っ子なのだが。彼女に大学時代に会ったとき、「うちはわたしが一番成績が良うて、下にいくほどあかんねん。三女は女学院に落ちて浪人して1年遅れて入ったんえ。末っ子の弟は灘を受けることもでけへんかった」と話し... 続きをみる
私立志向
お姉さん達の卒業後、いつも教室まで呼びにきてくれた1人に、学校の近くで偶然会った。彼女もはにかみ屋なので恥ずかしそうにほほえむだけで、私に話しかけることもなく別れた。彼女がK中学校の制服を着ていたことに気付いた私は、少し驚いた。K小学校の卒業生は私立の中学校に進学するのが当然のようになっていて、... 続きをみる
ままごと
給食が始まって大分たった頃、昼休みの時間に6年生の女の子達が私の教室まで来て、私を砂場に連れ出すようになった。ままごと遊びの小さな妹に私が適役だったらしい。私は母が作った派手な目立つ服を毎日着ていたので、かわいく見えたのだろう。皆親切でとても大事に扱ってくれた。ままごとをさして面白いと思わなかっ... 続きをみる
PTA
複数校の給食をまとめて作る給食センターはまだ存在しない時代だから、校内に調理室があり、有志の母親達が食事作りを手伝う。外向的な私の母は要請されると喜んで応じた。母は小中学校のPTA役員を毎年引き受けて親どうしの交わりを楽しんでいた。私が親になった頃からPTA役員のなり手がいなくなり始めたが、私の... 続きをみる
コッペパン
給食のおかずのほとんどが食べられないけれど、コッペパンは食べることができた。でも残して持って帰るようにという母の指示があったので、ほとんど食べずに給食袋に入れた。私の食べ方がのろくて給食の時間内に食べ終わらないことを母は分かっていたのだ。何をするのも遅い私を心配して、母はクラス替えのたびに担任へ... 続きをみる
鯨肉
多くの小学生にとって給食と体育が学校で最も楽しい時間だろう。私の息男もそうだった。でも私にとっては2大苦痛の時間だった。体を動かすことが嫌いな上に、運動能力ゼロで劣等感にさいなまれる体育。給食はまずくて食べられない。偏食の母の手料理に慣れた私の口は、食材も味付けも全く異なる給食を受け付けなかった... 続きをみる
脱脂粉乳
学校給食法が施行されたのは1954年(昭和29年)6月だそうだが、53年に私が入学したとき、K小学校は既に給食を実施していた。戦後の食糧難対策として、都市部の小学校では早くから給食を始めていたようだ。ユニセフからアメリカ産の脱脂粉乳を寄贈され、アメリカ産小麦で作られたコッペパンを食べて育った私達... 続きをみる
旗日
電車に関してもう一つ。何の教科の時間か忘れたが、先生が12両の客車とそれを引っ張る機関車の絵を黒板いっぱいに大きく描いたことがある。前の客車から順に、『1月』、『2月』と、『12月』まで書いた。「自分のお誕生日の車両に、名前を入れましょう」と先生が言った。私は自分の誕生日がいつか知らなかった。ク... 続きをみる
人形
社会の授業では、教室で大恥をかいたことがある。「電車と自動車は、どっちの方が速いですか?」と小野先生が皆に質問して、私は手を挙げていないのに私を指名した。教室で発言するのが恥ずかしく、答えが分かっても滅多に手を挙げない子供だったから、私に発言の機会を与えようとしてくれたのだろうが、乗り物にも速さ... 続きをみる