私は団塊の世代

団塊の世代の私が生きてきた時代を振り返ってみようと思います。私の記憶の間違いをご指摘くださるとうれしいです。

PTA

 複数校の給食をまとめて作る給食センターはまだ存在しない時代だから、校内に調理室があり、有志の母親達が食事作りを手伝う。外向的な私の母は要請されると喜んで応じた。母は小中学校のPTA役員を毎年引き受けて親どうしの交わりを楽しんでいた。私が親になった頃からPTA役員のなり手がいなくなり始めたが、私の子供時代は専業主婦が多く、学校をサロン代わりに考える母親が結構いたようだ。役員でない母親達も参加できる教養講座が度々開催され、学校はカルチャーセンターの役目も担っていたのだろう。絵付け講座で母が作った小皿は何年も使って、出来栄えはともかく大いに役立った。
 3年か4年のときに、給食用の食品を運ぶトラックが交通事故を起こした。調理室までトラックが行く通路に幅の狭い場所があって、低学年の男子児童がトラックと校舎に挟まれて鼻をけがした。以後トラックは狭い場所の手前で止まり、そこから調理室まで手で運ぶことになった。全校朝礼でこの話をしたときの校長の深刻な表情が今も私の頭に残っている。
 それより前の2年生の夏休み明けに、もっと悲惨な交通事故について校長が話したことも思い出した。「近くに寄って」と、整列している全校児童を朝礼台に扇形に近づけてから、声を潜めて、5年生の男子が自転車で車にぶつかり、亡くなったことを語った。私にとってその子は見ず知らずだが、ショックでその日一日気が重かった。

絵付け

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