私は団塊の世代

団塊の世代の私が生きてきた時代を振り返ってみようと思います。私の記憶の間違いをご指摘くださるとうれしいです。

流産

 幸子の夫の病気が回復するまでに10年以上かかったように思う。再就職した夫の収入は少なく、幸子は晩年まで働き続けた。夫は、朝日新聞の記者としてエリートコースを進む弟について、「僕は同志社の経済を出たんですけど、弟は同志社の英文科ですねん」と、母と私に話したことがある。当時の同志社大学は経済が一番難しく、英文科より上とされていたのに、病気のせいで弟にこんなに差をつけられてしまってくやしいと言いたかったのだろう。
 弟妻夫は、子供にも恵まれた。妻は弟よりずっと年上なので諦めていたそうだが、40代になって妊娠し、命懸けで産んだ。当時は25歳までに第1子を産むべきだとされていた。多子出産の祖母も私の義母も、30代前半に産み終えている。自分がお産で死んだときは子供を託すと言われた幸子は、ひそかにそうなることを願ったが、母子とも無事だった。その前に幸子妻夫も一度妊娠したのに、流産してしまった。
 幸子は姉妹で一番貧しく、子供もいなくてかわいそうだったと私は思うが、極楽とんぼで頑張り屋の彼女は、最愛の夫と人生を明るく生きた。最期の家は調度品も立派で、育児に金を使わずにすんだ分、裕福な生活だったようだ。夫の死から1年後に亡くなった。2人とも80歳の往生だった。最後の1年は独りで泣き暮らしていた。母が幸子の自宅を訪問して意識不明の彼女を見つけ、救急車を呼んで入院させた。母はほぼ毎日バスで見舞いに通って、手作りの好物を差し入れた。長姉のいち子は既に他界し、妹の洋子は東京住まいだから、京都にいる血族は母だけだ。「そんな毎日来てくれんでもえええ」と言われたそうだが、根は優しい母だから、嫌いでも放置できないのだ。

イラストACより

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