朝鮮戦争
52年(昭和27年)3月に大阪から兵庫県に転居するときも、私は京都の祖母父の家に預けられた。今回は、「引っ越しが終わるまで」と言われて、何泊か明示してもらえなかった。1週間以上たっても両親から連絡がないので悲しくなっていたある日、幸子叔母がやってきて、「大阪に行って、あんたのお母ちゃんに会うてき... 続きをみる
大阪城
マイコに、「大阪城に行ったのはいつやった?」と尋ねると、「ずっと前」と答える。「三輪車で遊んだのはいつ?」と尋ねても、「ずっと前。」 1週間前のことでも、30分前のことでも、「ずっと前」と言うので、父が面白がって、「マコちゃん、いつ何々したん?」のような質問をわざとしては、マイコに「ずっと前」と... 続きをみる
汲み取り式のトイレ
幼稚園生活は、私にとって少しも楽しくなかった。クラスの写真を見ても、かっちゃんと担任の中西先生しか分からない。かっちゃんのほかにクウちゃんという女の子がいたことを覚えているが、写真の中のどの子がクウちゃんか分からない。私は辛うじてクウちゃんとだけ友達になれたらしい。しかしある日、「クウちゃん!」... 続きをみる
大阪市立大宝幼稚園
51年(昭和26年)4月から私は、大阪市立大宝幼稚園に通い始めた。幼稚園に行かない子が9割近い時代に、なんと私は2年保育の課程に入園したのだ! 向かいのかっちゃんも行くからか、教育熱心ないち子伯母の影響を母が受けてか? 毎月のように遠足があったそうで、保護者も同伴できる。遠足の集合写真には着物... 続きをみる
キセル
祖母はタバコを吸う。長いキセルの先に刻みタバコを詰める。父もたまに吸うが、紙巻きタバコの『ピース』である。私の知る親族で刻みタバコの愛用者は祖母だけだ。茶の間にあるタバコ専用の机の前に座って一服する。タバコの燃え殻を机に備え付けの灰皿に落とすために、キセルを灰皿にコンコンと打ち付けるしぐさが私に... 続きをみる
階段タンス
流しのそばに井戸があるが、私が物心ついたときにはもう使っていなかった。小学校高学年の頃に、無用の井戸を壊してその場所にシャワーを取り付けた。土間の片隅のシャワーは、周りに覆いがなく、全裸が丸見えの状態。銭湯に慣れている彼らは家族に裸を見られても気にならないのだろう。立派な家でも浴室がないから、皆... 続きをみる
練り歯磨き
京都の町家では、茶の間(居間)を『台所[だいどこ]』と呼び、台所は『走り』という。『走り』は、玄関から奥の庭まで続く『通り庭』の一部で、土間だから下駄を履いて調理する。うっかり食べ物を落とそうものなら、土にまみれて食べられなくなってしまう。『走り』の上は吹き抜けになっている。『おくどさん』と呼ぶ... 続きをみる
京都市立堀川高校
大阪に住んでいた2年間、私は京都の祖母父の家によく預けられた。年子の幼児を育てるのはたいへんだろうし、家事も現在と違って重労働だったから、私を祖母に預けて少しでも息抜きしたい気持ちは分かるが、頻繁に預け過ぎだ! 祖母父の家より我が家にいたいと自己主張することを知らなかった私は、「3つ寝たら帰っと... 続きをみる
近視
父は私を『タコ』、マイコを『チビ子』と、よく呼んだ。『タコ』は『好かんタコ』から来ているのか? マイコは中学生のときに家族4人の中で一番背が高くなり、『チビ子』の愛称は実態と合わなくなってしまった。 マイコは母方の血筋を引いて、165㎝くらいある。48年(昭和23年)生まれの平均身長より10㎝... 続きをみる
第一次反抗期
50年(昭和25年)11月に2歳になったマイコは、第一次反抗期がすごかった。地団駄を踏んで、「嫌や、嫌や」と大声で叫ぶ。挙げ句の果てには、あおむけに寝転んで手足をバタつかせ、泣きわめく。大丸デパートの中でもよくひっくり返って大騒ぎした。なだめても効果がないときは、母は私の手を引いて走り出す。する... 続きをみる
回虫
ジェーン台風と並ぶ大阪時代の強烈な思い出は、蛇のような回虫がお尻から出てきたこと。駆虫薬を飲まされた後、庭で排便したら、便と一緒に出てきた回虫がぐにゅぐにゅうごめいている!(と思ったが、実際は既に死んでいたのかも。) そばに付いていた父が、回虫を駆除できてよかったという表情をしているのを見て、恐... 続きをみる
サザエさんの髪形
母が『サザエさん』風の奇異な髪形で新婚時の写真に収まっているのを、数年前に実家で見つけてびっくりした。前髪がおんどりのとさかのように見えるあのヘアスタイルが当時はやっていたなんて知らなかった! 私が朝日新聞を読める年齢になったときには周囲の誰もサザエさんの髪形をしていなかったので、原作者の長谷川... 続きをみる
ワカメちゃん
女児の髪形は、サザエさんの妹のワカメちゃんのおかっぱが標準だ。横は耳が見える長さにそろえ、後ろは刈り上げ。当時松島トモ子さんや小鳩くるみさんなど、幼児・小学生の童謡歌手が大勢活躍していて、ラジオや少女雑誌をにぎわせていたが、彼女達はおかっぱの横の髪にだけパーマをかけていた。スターの彼女達のヘアス... 続きをみる
電気パーマ
私は幼児期からパーマをかけていた! おしゃれに関心の強い母は、自分だけでなく、幼児の私とマイコにもパーマをかけさせていた。「キリコの毛が薄かったさかい、ボリュームを出すためや」と言うが、中学生になるまで私の周りにパーマをかけた子供は1人もいなかった。自宅でコテ(鏝)を使って髪を巻いてもらっている... 続きをみる
ダンボ
父は洋画が好きで、映画館によく行っていたらしい。「イタリアの映画が一番ようできてるなあ」と、小学生の私に話したことがある。当時はやっていたアメリカの西部劇や、日本の映画はくだらないとこきおろしていたが、原節子とか杉村春子とか池部良とかの俳優に詳しかったから、邦画も見ていたにちがいない。 私達は... 続きをみる
ジェーン台風
50年(昭和25年)9月3日にジェーン台風が来た。76歳の現在まで自然災害に因る大きな被害を被っていない幸運な私にとって、ジェーン台風が一番の恐怖の思い出である。暴風でガラス戸がガタガタすごい音を立て、母が外れないように必死になって押さえていた。3歳の私と1歳のマイコは夏だというのに何枚も厚着さ... 続きをみる
鏡台
鏡台は嫁入り道具として本当に持ってきたのだろう、京都の狭い部屋に住んでいたときからあった気がする。大阪では部屋の片隅の暗い場所に置かれていて、私はその鏡で自分の顔を見るのが怖かった。他人の顔と違って、自分の顔は見慣れていないから? 普段は鏡に布カバーが掛けてあるので、鏡を見る機会は滅多になかった... 続きをみる
足踏みミシン
3年上のいち子伯母をいつもお手本にして生きてきた母は、結婚後も彼女のまねをし続けた。日曜日に洋裁学校に通って、近所の人の洋服を縫う内職を始めたのも、その一つ。当時既製服は『首つり』と呼ばれて、見下されていた。見るからに安物だし、ぴったりのサイズがないし、同じ物を着ている人に出会うしと、すこぶる評... 続きをみる
エレベーターガール
3歳のときに住所も言えるようになった。父が教え込んだのだ。『大阪市南区鰻谷』まで今も覚えている。「教えたおかげで、迷子になったとき無事に家に帰れた」と、父は後年何度も自分の深謀遠慮を自慢気に私に話した。3歳か4歳のときに私が独りで大丸に行って、店員に家まで送ってもらった事件を言っているのだが、私... 続きをみる
ブリキのおもちゃ
両親からおもちゃらしき物を大阪時代に買ってもらった記憶がない私は、一郎伯父が来訪したときにくれたブリキ製のままごとセットが頭に強く焼き付いている。その日は就寝時まで夢中になって、ブリキの茶碗や鍋でままごと遊びをして過ごした。 おもちゃらしき物を買ってもらわないと書いたが、従兄の修平が成人してか... 続きをみる