私は団塊の世代

団塊の世代の私が生きてきた時代を振り返ってみようと思います。私の記憶の間違いをご指摘くださるとうれしいです。

エレベーターガール

 3歳のときに住所も言えるようになった。父が教え込んだのだ。『大阪市南区鰻谷』まで今も覚えている。「教えたおかげで、迷子になったとき無事に家に帰れた」と、父は後年何度も自分の深謀遠慮を自慢気に私に話した。3歳か4歳のときに私が独りで大丸に行って、店員に家まで送ってもらった事件を言っているのだが、私は帰り道を知っていたから、実際は迷子になったわけではない。父が家にいる日曜日は、母は私達を家に置いて独りで大丸に行く習慣になっていた。母がいないと寂しい私はある日、「お母ちゃんを迎えに行ってくる」と父に言って、独りで大丸に出かけた。ところがいつもの食料品売り場に母がいない。当時食料品売り場は1階だった。子供から解放される日曜日は羽を伸ばして、上階のウインドーショッピングを楽しんでいたのだろう。どの階に行ったか分からない母をどうやって捜したらいいのか、私は気が動転してしまった。エレベーターに独りで乗ることもできないし。
 ちなみに、当時のエレベーターのドアは自動開閉ではない。『エレベーターガール』が添乗していて、彼女が二重のドアを1枚ずつ手動で開け閉めしていた。内側のドアは蛇腹状に伸縮する格子でできているので、ドアを閉めてもその向こうの壁が見えたまま、エレベーターが上下する。
 エスカレーターはまだなかった。大丸に初めてエスカレーターが付いたとき、既に大阪から兵庫県に引っ越していたが、父が私とマイコを連れてきてくれた。自動で昇れる階段ってどんな物なのか、エスカレーターを見るまで私は全くイメージが湧かなかった。百聞は一見にしかず。階段自体が上下に動くのだ! 大丸に初めて設置されたエスカレーターは、1階から地下1階に降りるのが1基あるだけで、昇りはない。私達姉妹は、エスカレーターで地下まで降りては階段を上り、またエスカレーターで降りる行為を何度も繰り返した。そしたら1階のエスカレーターの乗り口に立っている女子店員に、「エスカレーターで遊んだらあかんのんよ」ととがめられた。エスカレーターにも最初は、『エレベーターガール』のような女性が配置されていた。
 閑話休題、母に会えなくてどうしたらよいか分からず、泣きべそをかいている私に店員が気付き、住所を言わせて、お姉さん店員が家まで送ってくれたという次第である。父の『深謀遠慮』の自慢を批判しながらも、私も息男が3歳のときに住所を教えた。しかし私と違って発音の悪い息男は、誰にも聞き取ってもらえないから、私以上に無益だった。

神戸にある「日本最古のエレベーター」:Yahoo!ニュースより

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