私は団塊の世代

団塊の世代の私が生きてきた時代を振り返ってみようと思います。私の記憶の間違いをご指摘くださるとうれしいです。

火災訓練

 2学期だったかに火災訓練があったときも、私がクラスで一番遅く校舎から避難した。サイレンが突然鳴って、小野先生が、「早く校庭に出なさい」と言うや、教室からいなくなった。皆が「火事だ」「火事だ」と叫びながら一斉に下駄箱まで駆けていき、私も慌てて走ったが、下駄箱に着いたときにはもう女児が1人しか残っていなかった。彼女も既に上履きから履き替え済みで、半泣きの私を見てちょっと立ち止まったものの、すぐに校庭に出ていった。私は必死で早く履き替えようとしたら、よけいに遅くなった。無事に校舎から出られてほっとしてから、これは本当の火事ではなく、避難の練習だったのだとようやく理解できた。クラスの皆は練習だと最初から知っていたのか? 私の次に避難が遅かった女児は落ち着いて平然としていて、パニックになっていなかった。事前に説明があったのかもしれないけれど、私は聞いた記憶がなく、たいそう怖い思いをした。学校での火災訓練は16年の学校生活で、この一度である。母の小学校は毎年行ったそうだが。
 そんな幼稚な私が学級委員長になって、担任の小野先生にも迷惑をかけたと思う。幸い副委員長のコウジ君がしっかりした子で人望も厚く、彼男がクラスを引っ張ってくれた。校庭でクラス別に女男が一列ずつ並ぶときは、学級委員長が一番前に立つ。後ろに並んでいれば、前の子に見習って行動すればよいが、一番前だと次はどうすればよいのかいつも不安で緊張する。ラジオ体操は次の運動が分からなくて、隣のコウジ君をいつも盗み見した。コウジ君は順番をしっかり覚えている。姉と兄がいるからか? 3学期になるまでに何度もラジオ体操をしているので覚えていて当然かも。とにかく私は何もできない子だった。
 1年1組の同級生数人のグループで、50代からメール交換を始めた。発信数が少なく、細々ながら20年間も続いているのは、コウジ君が頑張ってくれているおかげだ。彼男は私を今も『キリちゃん』と呼ぶ。

ピクトアーツより

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