大阪市のブログ記事
ニコヨン
下校途中に工夫達が道路を掘り返しているのをよく見る。父が、彼らは日雇い労働者で、『ニコヨン』と呼ばれているのだと教えてくれた。日当が240円だから『二個四』なのだそうだ。ときどき、日本語ではない言葉をしゃべっているニコヨン労働者のグループにも出会う。子供達が、「朝鮮人や」と言う。それまで『朝鮮』... 続きをみる
園長先生
悪いことも良いこともせず、目立たない私は、担任の視野の外にいたような気がする。私の方も彼女の印象が薄くて、高校までの担任で唯一名前を覚えていない先生だ。半年ほどの短い期間だったせいもあるかも。大阪の大宝幼稚園の中西先生は母と仲がよかったこともあって、発達の遅れている私に気配りしてくれたように思う... 続きをみる
エンゲル係数
毎日の食料品は駅前の市場で買う。大阪と違ってT市にはデパートなどない。代わりに大きな市場があり、母は籐編みの買い物籠を持って通う。外出が嫌いな私は、マイコと一緒に留守番していることが多いが、彼女がいないときは、泥棒が怖くて独りで家に残れず、母についていくか、少量の買い物なら私が使いを引き受けるか... 続きをみる
通天閣
兵庫県時代の父との外出で強く記憶に残っているのは、宝塚の『ウエーブコースター』に乗ったこと。『ウエーブコースター』は1952年(昭和27年)にできた日本初のジェットコースターである。どんな遊具か興味を持った父が、私とマイコを出しに使って連れていったのだろう。父は前の座席に座っている私とマイコが吹... 続きをみる
みおつくしの鐘
父が寝床で新聞や雑誌を読むときは、電気スタンドがまぶしくないように、私の顔に新聞紙を1枚かけてくれる。父は私とマイコには姿勢正しく読書することを強要しながら、自分は寝転んで読む。私達の視力の低下を避けたく、父自身は読書に睡眠薬の役割を期待しているからだ。 ラジオもスタンドもつけないで、暗闇の中... 続きをみる
牛
大阪と違ってここは家の前の通りを車が走ることはまれで、代わりに牛や馬が我が物顔に闊歩する。牛のべたっとしたフンがよく道に落ちている。馬のフンは乾いていて、臭いも見た目もあまり汚らしく感じないけど、馬より牛の方が圧倒的に多いので、道の落とし物もほとんどが牛のものだ。田んぼでスキを引いて土を耕す牛は... 続きをみる
蚊帳
夏は就寝時に蚊帳をつる。京都や大阪の家では使わなかった。田舎は都会に比べて蚊が多いのだ。いつのまにか日本から蚊帳が消えてしまったのは、網戸が普及したからか? 器用な母は引っ越し直後に、自作の網戸を縁側に取り付けた。空き地に落ちている木片を拾って枠を作り、それに網を張っただけの代物だけど、あるとな... 続きをみる
火の見やぐら
小川にはメダカやオタマジャクシやタニシやザリガニがいた。ヒルもいるらしいが、私は見たことがない。ヒルを指差すと指が腐ると友達から聞いて怖くて、川に向かって指を伸ばさないように注意した。脚が生えかけたオタマジャクシを見る機会も多く、『オタマジャクシはカエルの子』を初めて聞いたとき、『やがて手が出る... 続きをみる
朝鮮戦争
52年(昭和27年)3月に大阪から兵庫県に転居するときも、私は京都の祖母父の家に預けられた。今回は、「引っ越しが終わるまで」と言われて、何泊か明示してもらえなかった。1週間以上たっても両親から連絡がないので悲しくなっていたある日、幸子叔母がやってきて、「大阪に行って、あんたのお母ちゃんに会うてき... 続きをみる
大阪市立大宝幼稚園
51年(昭和26年)4月から私は、大阪市立大宝幼稚園に通い始めた。幼稚園に行かない子が9割近い時代に、なんと私は2年保育の課程に入園したのだ! 向かいのかっちゃんも行くからか、教育熱心ないち子伯母の影響を母が受けてか? 毎月のように遠足があったそうで、保護者も同伴できる。遠足の集合写真には着物... 続きをみる
京都市立堀川高校
大阪に住んでいた2年間、私は京都の祖母父の家によく預けられた。年子の幼児を育てるのはたいへんだろうし、家事も現在と違って重労働だったから、私を祖母に預けて少しでも息抜きしたい気持ちは分かるが、頻繁に預け過ぎだ! 祖母父の家より我が家にいたいと自己主張することを知らなかった私は、「3つ寝たら帰っと... 続きをみる
回虫
ジェーン台風と並ぶ大阪時代の強烈な思い出は、蛇のような回虫がお尻から出てきたこと。駆虫薬を飲まされた後、庭で排便したら、便と一緒に出てきた回虫がぐにゅぐにゅうごめいている!(と思ったが、実際は既に死んでいたのかも。) そばに付いていた父が、回虫を駆除できてよかったという表情をしているのを見て、恐... 続きをみる
ジェーン台風
50年(昭和25年)9月3日にジェーン台風が来た。76歳の現在まで自然災害に因る大きな被害を被っていない幸運な私にとって、ジェーン台風が一番の恐怖の思い出である。暴風でガラス戸がガタガタすごい音を立て、母が外れないように必死になって押さえていた。3歳の私と1歳のマイコは夏だというのに何枚も厚着さ... 続きをみる
鏡台
鏡台は嫁入り道具として本当に持ってきたのだろう、京都の狭い部屋に住んでいたときからあった気がする。大阪では部屋の片隅の暗い場所に置かれていて、私はその鏡で自分の顔を見るのが怖かった。他人の顔と違って、自分の顔は見慣れていないから? 普段は鏡に布カバーが掛けてあるので、鏡を見る機会は滅多になかった... 続きをみる
エレベーターガール
3歳のときに住所も言えるようになった。父が教え込んだのだ。『大阪市南区鰻谷』まで今も覚えている。「教えたおかげで、迷子になったとき無事に家に帰れた」と、父は後年何度も自分の深謀遠慮を自慢気に私に話した。3歳か4歳のときに私が独りで大丸に行って、店員に家まで送ってもらった事件を言っているのだが、私... 続きをみる
大丸心斎橋店
『お醤油屋さん』のほかにも食料品店が近所にあったのか記憶にない。大丸とそごうのデパートまで歩いて5分なので、食料品をデパートで買っていたから。そごうは大丸の向こう隣で、母は私とマイコを連れて毎日近い方の大丸に通った。家庭に冷蔵庫が普及していない時代は、生鮮食品を毎日買いに行かなければならない。 ... 続きをみる
2歳の記憶力
いち子伯母一家と私の一家は二階に住んだ。私達の住まいは道路に面した一番狭い部屋で、屋根裏部屋みたいに天井が斜めになっている。3人の布団を敷いたら畳はほとんど見えなかったように記憶する。食事は小さな長方形のちゃぶ台でとった。食事以外のときはちゃぶ台の脚を畳んで壁に立てかけておく。大阪に転居する前の... 続きをみる
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