私は団塊の世代

団塊の世代の私が生きてきた時代を振り返ってみようと思います。私の記憶の間違いをご指摘くださるとうれしいです。

2歳の記憶力

 いち子伯母一家と私の一家は二階に住んだ。私達の住まいは道路に面した一番狭い部屋で、屋根裏部屋みたいに天井が斜めになっている。3人の布団を敷いたら畳はほとんど見えなかったように記憶する。食事は小さな長方形のちゃぶ台でとった。食事以外のときはちゃぶ台の脚を畳んで壁に立てかけておく。大阪に転居する前の京都時代の記憶は、幼過ぎて皆無に近く、上記レベルのことしか思い出せない。
 強烈に覚えているのは、食事中に父に叱られ、「ナントカするな!」と怒鳴られたこと。してはいけないのか、すべきなのか、とっさに理解できなかった。『してはいけない』なら未然形か連用形でいつも言われるのに、『する』という終止形を使っている。だけど状況から多分『してはいけない』と言っているのだろうなと結論づけたところまで覚えているが、肝心の『ナントカ』の内容は思い出せない。これでは父も叱ったかいがなかったわね。
 人間は4歳未満の記憶を持たないと聞いたことがある。でも私の頭には、3歳の誕生日頃までしか住まなかった京都での記憶がうっすら残っている。『するな!』事件はかなり鮮明な記憶である。この事件について私は誰にも話したことがない。今ここに書くのが初めての口外である。
 私の息女も、2歳時の記憶がある。彼女が成人してから、東京の繁華街で歩道を歩くのを拒んだエピソードを初めて話したら、よく覚えていた。車道より高くなっている歩道に入ってはいけないと思って、私にいくら引っ張られても下に降りたのだと、当時の自分の心情まで解説してくれた。こんなにすごい記憶力なのに、学校での成績が私・夫・息男の家族4人中飛び抜けて悪かったのはなぜだろう? 夫と息男は私達女性と違い、過去の出来事をどんどん忘れる。それでも息男に、「2歳から3歳にかけて1年間アメリカに滞在したときのこと、何か覚えてる?」と、中学生になってから尋ねたら、「『自由の女神像』の螺旋階段の上り下りが怖かったことだけ覚えてる」という答えが返ってきた。息男にも3歳半の記憶が残っていた。家族4人の中で、彼男が高所恐怖症から最も解放されていると思う私は、階段の恐怖がアメリカでの唯一の記憶だと聞かされて驚いた。毎日のように一緒に遊んで大好きだった韓国人の友達について尋ねても、彼男の記憶は全くないと言う。
 私は体が弱くて運動神経が鈍いだけでなく、性格も引っ込み思案でいじいじしていた。(と過去形で書いたのは、中学生くらいから次第に厚かましくなっていったと自分で思うから。) 乳児期に母の手が空かないとき、玄関の敷居に乳母車をまたがせて、乳母車が半分外に出る形で私を乗せておくことがよくあったらしい。誘拐の危険がある現在なら考えられないことだが、通りがかる人が私の相手をしてくれるたびに、人見知りの強い私は大泣きするので、私の場合は世知辛くなった現在でも誘拐の心配はないだろう。私の泣き声で母はしょっちゅう玄関に駆けつけねばならず、「堪忍どっせ」と、私をあやしてくれた人は皆恐縮する。この強い人見知りは息女に遺伝し、誰にでもすぐに懐く息男と異なり、乳児期に息女を人に預けることができなくて不便極まりなかった。

乳母車に乗る私

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