私は団塊の世代

団塊の世代の私が生きてきた時代を振り返ってみようと思います。私の記憶の間違いをご指摘くださるとうれしいです。

母の実家のその後

 私達が3年後に大阪の社宅へ転居した後も、いち子伯母は実家に住み続け、結局彼女が井村家の実質の跡取りとなった。名字は井村じゃないけれど。妹2人(私の叔母達)が結婚して出ていき、両親(私の祖母父)が亡くなって、いち子婦夫は84年から実家のヌシに。いち子は夫の死後も数年間、独居老人の生活を送り、2004年ついに関東で息男の修平宅に同居することになるや、僅か1年半で彼岸へ行ってしまった。
 結婚後まもなく兵庫県の新居を空襲で焼かれて実家に戻ったとき、彼女は手に職をつけるべく洋裁学校に通い始めた。母子家庭を覚悟したのだろう。やがて近所の人の洋服を仕立てる仕事を得た。その後近所の若い女性達に洋裁を教え始めた。花嫁修業の一つとして洋裁は人気があり、彼女の小さな教室も繁盛する。3人の妹達の上に立って采配を振ってきた彼女にとって、教える仕事は天職だったにちがいない。実家の二階で50年以上洋裁教室を続けた。実家の家業の刺繍が禁止になった直後にOLを始めた母と違って、プライドの高い彼女は、お嬢様は会社勤めなどしないと就職経験なしに結婚したのに、結局終生職業婦人を貫くことになった。
 夫は復員後しばらくの間失業していた。プータローは近所に体裁が悪いと、彼女は夫に勤め人を装わせ、毎朝弁当を持たせて家から追い出したそうである。「うちはええかっこしいやから」と、独居老人時代に私に話してくれた。シベリア帰りの人は左翼の思想教育を受けていると思われて就職が難しかったことを、私は彼女の死後に知った。毎日公園で弁当を食べていた夫はほどなく日赤病院に職を得て、以後ダブルインカムの優雅な生活となった。
 いち子伯母が家を手放したと聞いたとき、新しい住人は隣近所に倣って鉄筋に建て替えるのではないかと私は危惧したが、『京町家まちづくりファンド』の助成を受け、この先百年間もつ家に改修してくれた! 母の実家は当分安泰である。

京町屋- Wikipediaより
(私の母の実家ではありません)

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