私は団塊の世代

団塊の世代の私が生きてきた時代を振り返ってみようと思います。私の記憶の間違いをご指摘くださるとうれしいです。

ペニシリン

 「隆ちゃんは早うから首がすわってるのに、キリコは遅かった。髪も薄うて、隆ちゃんとえらい違いやった」と母から何度も聞かされた。でも物心がついたときは既に、髪の毛が多くて持て余すほどだったし、顔も長いどころか真ん丸で、面長のマイコが羨ましい。但し後頭部の形は、マイコより私の方が良い。彼女は乳児期に寝かされていることが多かったのか、『絶壁』である。私は最初の子供だから、彼女より抱っこされる時間が長かったのだろう。私は病気ばかりして手がかかり、寝かして放置しておけるような状況でなかったせいもあるかも。
 1歳のとき、百日咳・肺炎・腸炎の3つの病気に続け様に侵された。『腸炎』って大腸か小腸かどこなのか両親に尋ねても、2人とも答えられない。3つの病気にかかった順序も覚えていないと言う。百日咳の症状は、「名前の通り百日間も激しい咳が続いて、苦しそうでかわいそやった」と父から聞いた。身重の母も私の看病でたいへんだっただろう。肺炎はペニシリンのおかげで命を落とさずにすんだ。終戦後だから接種できたのだ。何回注射したのか知らないが、「ペニシリンは高うて、もう今回であかんかったら諦めよ思てたら、それが効いた」と言う父に、《『諦めよう』なんて薄情な! 親ならどんな犠牲を払っても子供を助けて当然でしょう》と、私は気を悪くした。どのくらい高額か判明したのは、2003年(平成15年)に放送されたNHK連続テレビ小説の『てるてる家族』を見たときである。2本で家が1軒買えると言っていた。安月給の会社員である父の経済力ではとても無理だろうから、一郎伯父も援助してくれたはずである。改めて2人に感謝したい気持ちが起きたが、03年時、既にとっくに2人とも三途の川を渡ってしまっていた。ペニシリンを発見したフレミングの名前は、中学校で習ったフレミングの法則のフレミングよりずっと早くに覚えて、彼男には幼い頃から感謝の念を抱いていた。
 マイコが生まれたのは私が1歳7カ月のときで、それまでに私の大病は3つとも完治していたということである。最後の腸炎が治りかけた頃に、「パン、パン」と言ってパンを食べたがったが、まだ食事を制限されていて、「好きなだけ食べさせたげられへんかって、かわいそやったわ」と、四郎叔父の妻の春江が後年私に話してくれた。
 私と同じ日に生まれた従兄の隆は、私と対照的に元気にすくすく育った。隆の何人かの姉は乳幼児期に亡くなっている。当時は乳幼児の死亡率が高かったのだ。隆は大人になっても健康に恵まれて意欲的な人生を送っているように私には見えたが、日本男性の平均寿命に程遠い61歳で他界した。手遅れの癌だった。病気持ちの私の方が絶対先に逝くと私は確信していたのだが。ザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦も私達と同じ生年月日である。彼男が62歳で自殺したとき、私は素晴らしい作曲家の死を残念でもったいないと思う前に、彼男の残りの人生を隆に譲ってほしかったという気持ちでいっぱいになった。

病気になる前の私が、カタカタで遊んでいる

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