私は団塊の世代

団塊の世代の私が生きてきた時代を振り返ってみようと思います。私の記憶の間違いをご指摘くださるとうれしいです。

無国籍者

 第二次世界大戦が1945年(昭和20年)に終わると、徴兵されていた諸国の男性が戦場から一斉に帰国し、世界的なベビーブームが起きた。日本のベビーブームのピークは47年から49年の3年間で、その間に生まれた者を、『団塊の世代』と呼ぶ。47年3月21日に生まれた私は、『団塊の世代』の大行列の先頭の方を歩いている。後ろの大群に背中をつつかれながら、彼らの行進の露払いを現在まで75年間務めてきた。
 日本国憲法の公布(46年11月3日)と施行(47年5月3日)の間に生を受けたので、自分は民主主義と平和を謳う現憲法の申し子であるとの自負をひそかに持ち続けていたのだが、実は明治憲法の封建主義の影響をもろに受け、その被害者の1人に過ぎないことを、50歳近くになって知った。
 私は1歳から18歳まで、『無戸籍者』だったのだ!
 終戦の翌年3月に両親が結婚式を挙げたとき、母は父の戸籍に入ることができなかった。旧民法では、結婚に因って新たな戸籍を編成するのではなく、妻が両親の戸籍から夫の両親の戸籍に移る。しかし母は跡取りなので、井村家の戸籍を抜けられなかった。母は4人姉妹の二女で、長女(私の伯母)は既に他家に嫁いでおり、母が井村家の次期戸主だったのだ。長女のいち子の除籍が可能だったのは、彼女の結婚時にはまだ祖父(私の曽祖父)が生きていて、彼男[かのだん]が戸主であり、次期戸主は父(私の祖父)だったからである。いち子は養子をとらずに、自由に井村家を去ることができた。祖父(曽祖父)が45年に亡くなった時点から、母は井村家の戸籍に縛られることになった。
 父も中澤家の次期戸主で、井村家の婿養子にはなれない。父は長兄の養子なのだ。父の家は貧しく、姉や兄(私の伯母・伯父達)は小学校しか出ていないにもかかわらず、長兄の一郎より1回り下の父は、商才のある彼男のおかげで上級学校に進めた。そして、実子のいない彼男と父は養子縁組をした。
 入籍しない両親の下に生まれた私は、一郎伯父が戸主である父の戸籍の方に入れられた。なんと私は『私生児』だった! (父親が認知している場合は、『私生児』と呼ばずに『庶子』というそうだが。) でもそのときは、私生児にしろ、私に戸籍があっただけマシだった。翌48年に妹のマイコが生まれると私は抹殺されてしまうのだ! マイコの誕生時には既に新民法が施行されており、父は出生届と一緒に婚姻の手続きも行った。父が戸籍筆頭人となる新戸籍が作られたとき、父と私は一郎の戸籍から消される。その際の役所のミスで、父だけが新戸籍に移動して、私は新戸籍に記載されなかった。かくて、新戸籍には両親とマイコの3人だけが載り、マイコの続柄欄には『長女』と書かれた。
 18歳のときに突然私の遺漏が見つかったのはなぜか不思議だ。17年近くの間見つからなかったのは、もっと不思議だ。何度も転居し、そのたびに転居届を役所に提出しているのに。転居しても本籍地は変更せず、婚姻届を出したときに住んでいた住所(母の実家)で通したが。住民票には私が記載されているので、就学などの際に支障は全くなかった。住民票さえあれば、戸籍から消えていても不都合なく生きていけるようだ。
 私が遺漏について知ったのは、95年に父が亡くなって相続の手続きを行ったときである。過去の戸籍謄本を初めてじっくり見た。『長女』の『長』に線を引いて、『弐』に訂正してあるマイコの後ろに、私が追加されている。『父に随う入籍の記載遺漏につき昭和四拾年四月弐拾日附許可を得て同月弐拾壱日記載』と書かれている。誰の『許可』を得たのだろうか? 京都市中京区長か、父か? 当事者の私ではない。私は95年まで知らなかったのだから。パスポートの申請や私自身の婚姻届の際に戸籍抄本が必要だったはずだが、この記述を見た記憶が定かでない。抄本には遺漏について書かれていなかったのだろうか? 私がしっかり見なかっただけ?

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