私は団塊の世代

団塊の世代の私が生きてきた時代を振り返ってみようと思います。私の記憶の間違いをご指摘くださるとうれしいです。

松永安左エ門

 能力の評価尺度は学校と社会で異なる。父の兄の一郎伯父は貧困のために小学校しか出ていなくて、しかも小学校の勉強も、「さっぱり分からなんだ」と言うが、世渡りは上手だった。起業し、京都市内では名の通った会社に成長させた。
 某月刊誌に彼男のエピソードが実名で載っているのを、4人兄弟の上3人の死後に末弟の四郎叔父が見つけた。1985年(昭和60年)の発行だが、四郎が見つけたのはその10年以上後のことである。34年(昭和9年)に31歳の一郎が、東邦電力会社社長の松永安左エ門に古美術品を売り、その代金を請求したら、「既に払ってある!」と松永にどなられたという話が書かれている。一郎は代金を受け取れず、傷心の帰り道タクシーにはねられ、骨折して入院した。まもなく松永が自分の思い違いを悟り、小切手と詫び状を届けた。34年といえば父が三高生で、一郎は父と四郎を養っていた頃だ。以来一郎は松永を許さず、縁を切った。戦後骨董とは別の事業で成功した一郎は、26年後の60年(昭和35年)に松永と京都の料亭で再会を果たしたという。
 若い頃の一郎を全く知らない私はこの記事を読んで心を打たれた。無一文・無学歴の人間が31歳で松永や北大路魯山人らに骨董品を買ってもらえるまでになるだけでもすごいのに、その後一方的にどなられる立場から対等に会食できるところまで出世するなんて、さすが一郎伯父だ!
 しかし四郎叔父は、「兄貴を馬鹿にしてる」とこの記事を書いた某作家に立腹していた。一郎を、無教養だの、品が悪いだの、金銭に執念が強いだの、言いたい放題で、彼男は完全に一郎を見下している。Wikipediaに掲載される程度の有名作家に一郎がよく知られていることの方に感銘を受けた私は、彼男の無礼には四郎ほど憤りを覚えない。

東邦電力の名古屋火力発電所:Wikipedeiaより

×

非ログインユーザーとして返信する