私は団塊の世代

団塊の世代の私が生きてきた時代を振り返ってみようと思います。私の記憶の間違いをご指摘くださるとうれしいです。

朝鮮戦争

 52年(昭和27年)3月に大阪から兵庫県に転居するときも、私は京都の祖母父の家に預けられた。今回は、「引っ越しが終わるまで」と言われて、何泊か明示してもらえなかった。1週間以上たっても両親から連絡がないので悲しくなっていたある日、幸子叔母がやってきて、「大阪に行って、あんたのお母ちゃんに会うてきたえ。」「まだ引っ越してへんの?」「まだ大阪にいはったわ。」 私は絶望的な気持ちになった。《いつになったら新しいおうちに行けるのやろ?》 祖母父の家には電話があるが、私の家にないので、母の声を聞くことも話すこともできない。
 GHQが廃止されて日本が主権を回復した頃、私の一家は大阪から兵庫県の社宅に移った。5歳になったばかりの私はもちろん、日本が占領されていたことも、ようやく独立できたことも、何も分かっていない。朝鮮戦争が2年前から始まっていることも知らない。私が『総理大臣』に気付いたのは、鳩山一郎の時代になってからである。1945年の終戦以来日本は平和でよいと、大人達から聞かされて育った。日本国憲法に掲げられた平和主義のおかげで朝鮮戦争に動員されることもなく、特需の恩恵にだけ浴して日本の復興を早めることができた。大人達は貧しいながらも意気軒昂に毎日の暮らしを営めたのではないだろうか? 地球環境の悪化や貧富の差の拡大で、未来に希望を持てない今の若者達と対照的に。
 大阪と神戸を結ぶ電車は、国鉄(JR)・阪急・阪神の3会社あるが、新居は最も北を走る阪急の沿線で、伊丹空港を離着陸するらしい飛行機が時々頭上を飛ぶ。大阪にいた頃は飛行機が飛んでいるのを見たことがなかった。ブーンという飛行機の音が聞こえるたびに大人がびくっと緊張するので、B-29の空襲を知らない私達子供も、一緒に体をこわばらせてしまう。終戦から既に7年近くもたっているのに。
 新居も平屋だが、広さは大阪の倍で、浴室も備わっている。もちろん都市ガスも完備している。庭の周囲に高い板塀とかんぬき付きの門もしっかりある。住所に『字[あざ]』という字が入っていて、父が、「『字』は田舎の住所に付いてるのや」と教えてくれた。すぐ近くに田畑が広がり、夜間カエルの声が聞こえるような場所に私が住んだのは、このときの5年半だけで、残りの70年は住宅密集の都会生活である。ここも今では田畑が消え、市街地に変わってしまったが。

兵庫県の社宅の玄関で母と

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