私は団塊の世代

団塊の世代の私が生きてきた時代を振り返ってみようと思います。私の記憶の間違いをご指摘くださるとうれしいです。

大阪市立大宝幼稚園

 51年(昭和26年)4月から私は、大阪市立大宝幼稚園に通い始めた。幼稚園に行かない子が9割近い時代に、なんと私は2年保育の課程に入園したのだ! 向かいのかっちゃんも行くからか、教育熱心ないち子伯母の影響を母が受けてか?
 毎月のように遠足があったそうで、保護者も同伴できる。遠足の集合写真には着物姿の母親が何人かいる。もちろん母は手製の洋服。自分と私達姉妹の3人おそろいの洋服を、遠足の都度新調した。徹夜で3人の服を縫い上げ、肝心の遠足の日は寝不足でフラフラしながら歩いていた母を覚えている。それを見て、私はそんな本末転倒なことはしたくないと思い、裁縫が全くできない人間に育ってしまった。母が裁断を工夫して端切れが出ないように努めるので、端切れをもらえなかったせいもある。小学校の同級生はあつらえた洋服の大きな端切れを沢山持っていて、小物や人形の服を作って遊んでいるのに。でも私の裁縫音痴は環境のせいだけではないかも。マイコは結構洋裁ができるから。
 私達姉妹は小学校を卒業するまで、母の手作りしか着なかった。シャツやパンツのような下着と靴下と水着くらいが市販品で、セーターも、オーバー(コート)も、全部母が作ってくれた。中学校のセーラー服も、入学時は学校指定の店であつらえたが、体が大きくなって身に合わなくなると、次は母が作った。ウエディングドレスも母の手製だ。私は結婚するまでずっと母の着せ替え人形を務めた。マイコは思春期から自分の好みを主張し始め、母が作る洋服にも細かく注文をつけるようになったが、おしゃれに無関心で面倒な私は、毎日母の選んでくれた物を着続けた。

大宝幼稚園の園旗

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