私は団塊の世代

団塊の世代の私が生きてきた時代を振り返ってみようと思います。私の記憶の間違いをご指摘くださるとうれしいです。

優生保護法

 近所の子供達の中でよく遊んだのは、山本さん宅の姉妹である。山本家は5女1男の子沢山で、総領の長男は20歳近かったと思う。私の年代が長子のきょうだいは2人が普通だ。しかも2年違いが多く、私の小中学校の同級生の妹弟がマイコの学年に大勢いた。逆に末っ子が私と同年代の場合は、多くの姉兄を持つ人が多い。従姉兄の澄子・隆姉弟も上に姉が何人もいるし、大阪のかっちゃんも4、5人の姉兄を持つ。私の夫も1女6男の末っ子である。マイコは1女8男の末っ子と結婚した。1941年(昭和16年)に掲げられた『産めよ増やせよ』のスローガンが戦後一転して、GHQの指導で48年(昭和23年)に優生保護法ができ、家族計画運動が進められた結果だろう。50年代は中絶も盛んに行われたらしい。
 話を戻して、山本さんの長女も長男同様、5歳の私から見れば『大人』の部類に入り、二女も小学校の高学年なので、私とマイコの遊び相手は三女以下の3人である。二女のじゅんちゃんは、「あ、ワシや!」と空を指差して、私達がその方向を見上げると、今度は自分を指差し、「わしはここにおる」と私達をからかったりする。私がガムをかんでいるときに、「チューインガムは長靴のゴムとおんなじやねんで」と言われ、ガムが急にまずくなってしまったこともある。「おミカンやスイカの種を飲み込んだら、盲腸(虫垂炎)になるで。」 前日に飲み込んだことを思い出した私は、《盲腸になったらどうしよ》と青くなった。上に姉兄がいると、このような虚実取り混ぜた雑多な情報を聞かされながら育つのだろうか?
 いとこの中で最も親しかった3歳年上の修平も、私にいい加減な話をして私を震え上がらせた。例えば、隣家の蔵を指差して、そこから女の子の「ギャーッ!」という悲鳴が先日聞こえたと言う。その子は首を絞められて殺されたのだそうだ。信じ難かったが、修平が真面目な顔で話してくれるので、うそと切り捨てることもできず、私の記憶にしっかり残った。
 虫下しを路上で売る人がいて、周りに人だかりができているのを、2人でのぞいたときのことも忘れられない。売り手の巧みな口上に反応して体調の悪さを訴える人がいた。「あの人はおなかに回虫がいて栄養失調やさかい、じき死ぬわ」と修平が私にささやいた。《あんなに元気そうな人がじきに死ぬやなんて!》と命のはかなさに恐怖を覚えた。
 思い返せば私もマイコに適当な話を沢山した。私自身が正しいと信じて善意で教えてあげたものがほとんどだが、時には自分の空想を真実かのように聞かせたこともある。
 山本家の三女のさわちゃんは私より2年上の小学2年生、四女のよりちゃんはマイコと同じ3歳、五女のいくちゃんは2歳である。じゅんちゃんは私に対して完全に上から目線だが、さわちゃんと私とは対等に張り合う。トランプなどのゲームは私の方が強いし、計算も速いし、漢字も私が彼女に教えてあげることが多い。まりつきやゴム跳びなどは彼女の方が少し上手だけど。

我が家の庭で

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