私は団塊の世代

団塊の世代の私が生きてきた時代を振り返ってみようと思います。私の記憶の間違いをご指摘くださるとうれしいです。

戦争と父

 父も、いち子伯母の夫のようなひどい目には遭わずにすんだ。39年(昭和14年)に召集された父は、戦争が悲惨さを増す前の43年に除隊できた。再度徴集されないように、『日本軽金属』というアルミを精錬する会社に、中途採用で滑り込んだ。学徒出陣も実施される中、軍需品のアルミのおかげで、父はうまく逃げおおせた。もし再召集の憂き目に遭っていたら、シベリアか南方に送られて、体力も運動能力も劣る父は無事に帰国できなかったにちがいない。
 父は大学卒業時に就職せず、一郎伯父の仕事を手伝って気楽に過ごしていたらしい。そうしたら徴兵検査で乙種の判定だったにもかかわらず、召集令状が来てしまった。身体頑健な甲種合格者だけでは、39年の時点でも既に兵隊が足りなかったのだろう。弟の四郎叔父は乙種より更に下の丙種だったため、徴兵を免れた。背は父より高いし、どこが劣っていて丙種になったのか私には不明だが。一郎・二郎の2人の兄は高齢で免除されたのか、4人兄弟で兵役に取られたのは父だけである。
 父の軍隊生活は、戦争末期に比べると天国といえるかもしれないが、やはり嫌な思い出が多いようだ。寡黙な父は戦争に限らず、過去の話をあまりしてくれなかった。断片的に話してくれたことを思い出すままに書くと、長江沿岸に送られた父の役目は、中国人捕虜の監視だった。「冬は毛布を2枚掛けても寒うてたまらんのに、捕虜には1人1枚しか支給されへんのや。」 逃亡する捕虜が多数出たと言う。「たいへんじゃない! 上官に怒られるでしょう?」 「凍死したことにしといたらすむねん。それより捕虜が反乱を起こさへんかと気が気やなかった。多勢に無勢やから、襲撃されたら仕舞いや。」 父と大学が同期で中国語を専攻した友人は、捕虜に自白を強要する仕事をさせられて、拷問にも加担せねばならず、父は彼男を終生気の毒がっていた。淋病にかかって苦しむ戦友もいた。「淋病は名前の通り、ほんまに淋[さび]しい気持ちになるらしい。」 潔癖症の父は、淋病にかかるような危険は冒さない。
 消灯ラッパのメロディで、「新兵さんはかわいそうだね。また寝て泣くのかよ」と歌ってくれたことがある。軍隊内では理不尽ないじめが横行し、一等兵の父の顔を見て上官が、「こいつはしばらく殴ってないな」と言いながら、全く落ち度がないのに父を殴ることもあったそうだ。部下に不当な暴力を振るってお構いなしのパワハラ日本軍は、中国人の人権など無視して当然だ。日本兵が公道で中国人女性の下半身を裸にし、みんなで面白がっている光景に出合ったという話を、いち子伯母の夫から聞いたとき、十代だった私は戦慄を覚えた。
 日本と文化の異なる中国人の暮らし振りは父にとって興味深かったようで、例えば、婦夫(夫婦)喧嘩をすると妻が家から外に出てきて、大声で自分の正当性を主張するというような話をしてくれた。「女の方が口が達者やから、中国の男はたいへんや。」 中国語を知らない父は、漢文を紙に書いて筆談で現地の人と交流した。片言も幾つか覚え、『父』を『フーチン』、『母』を『ムーチン』というのだと私に教えてくれたが、後にテレビで中国語会話の番組を視聴してみたら、『パパ』・『ママ』と言っていた。戦後呼び方が変わったのだろうか?

中国での父

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