私は団塊の世代

団塊の世代の私が生きてきた時代を振り返ってみようと思います。私の記憶の間違いをご指摘くださるとうれしいです。

戦争と母

 京都は空襲が皆無に近かったから、その点では私の両親は一般的な日本人より恵まれていたと思う。京都は原爆投下の候補地なので、アメリカが終戦後に原爆の破壊力を調査しやすいよう、原爆以外の空襲を控えたのだと聞く。広島も同様で、原爆の投下まで空襲の被害をほとんど被っていない。終戦直前に京都と広島の運命が分かれた。広島で生を受けた私の夫は、『被曝二世』である。
 母より1回り下の末妹の洋子叔母は学童疎開したが、結果論から言えば京都にいても安全だった。空襲警報が鳴るたびに必死で防空壕に逃げるいち子伯母を、母は笑っていた。普段は何事につけ、彼女に一目置いている母なのだが、《家の下に掘った防空壕なんかに入ったかて、蒸し焼きになるだけや》と考える母は、一度も防空壕に避難しなかったそうだ。空襲で焼け出された経験がある上に、一人息男を守らねばならない立場のいち子は、妹達のように楽観していられなかったのだろう。いち子は結婚後の新居で空襲に遭い、夫は召集されて不在なので、息男を連れて実家に戻ってきていた。
 母の実家は刺繍を家業としていた。ぜいたく禁止令(「奢侈品等製造販売制限規則」)が40年(昭和15年)に発令されて、廃業せざるを得なくなった。それまでは30人ほどの職人が家にいて、母はちょっとした『お嬢様』だったらしい。登校時に、「靴!」と叫べば、使用人がさっと玄関の敷石に置いてくれる。「小学校で避難訓練があると、いっつもうちの靴を履く人がいはるねん。」 避難訓練のときは誰の靴を履いて逃げてもよいことになっていて、動作の鈍い母は機敏な同級生に負ける。母の靴はほかの子から狙われるくらい上等だったようだ。また修学旅行には、体の弱い母の面倒を見るために、使用人が同行したと言う。
 そんなお嬢様生活が一転、使用人を全員解雇後、母は保険会社に勤め始めた。着物と食糧を交換してもらいに、遠縁の農家を訪ねたりもせねばならなくなった。母に男の兄弟がいないことは幸いだったかも。小学校の同級の男性が大勢戦死した。(小学校だけ女男共学だった。)

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